奈良県桜井市中部から橿原市東南部にかけての地域にあったとされる古代の池。5世紀前半ごろに履中天皇(りちゅうてんのう)が造営し、清寧(せいねい)、継体(けいたい)、用明(ようめい)など歴代の天皇がそのほとりに宮殿を営んだという。「日本書紀」や「万葉集」などにその名が見えるものの、正確な所在地は不明で、長らく「幻の池」とされてきた。2011年12月15日、橿原市教育委員会は、市内東池尻町で、6世紀後半の堤跡が見つかったことを発表。川の水をせき止めたダム式人工池の遺構と見られ、磐余池である可能性が高まっている。発掘された堤は、粘土で盛り土をした高さ2メートル、幅8メートル、長さ81メートルほどの尾根。全体の規模は高さ3メートル以上、最大幅55メートル、全長約330メートルと推定される。これで谷をふさぎ、東西約700メートル、南北約600メートル、面積8万7500平方メートルに及ぶ広大な池を造成したものと見られる。堤の上には南北17.5メートル、東西4メートルの大型建造物を含む6棟の建物跡と塀跡2列も見つかり、出土した土器などから6世紀後半のものと判明した。これは聖徳太子の父用明天皇(在位585~87年)が営んだ池辺双槻宮(いけのべのなみつきのみや)とほぼ同時代であることから、関連施設ではないかとの声もある。この池では、歴代天皇が華やかな舟遊びなどをしたとされ、大津皇子の辞世の歌でもよく知られている。