奈良県明日香村で新たに石槨(せっかく)(棺を置く石室)が見つかった7世紀後半の古墳。2010年9月に八角形墳であることが判明し、斉明天皇陵の可能性が高まった牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)の範囲確認調査中、同古墳の南東約20メートル付近で発見された。「日本書紀」に「斉明陵の前に葬った」との記述があることから、被葬者はのちに天智天皇となる中大兄(なかのおおえ)皇子の長女で、斉明天皇の孫に当たる大田皇女(おおたのひめみこ)と推定される。10年12月9日、明日香村教育委員会が発表。付近の地名から「越塚御門古墳」と名付けられた。石槨は東西約3メートル、南北約3.5メートルの床石の上から、ドーム状にくり抜いた巨岩を被せた構造で、内側は長さ約2.4メートル、幅約90センチ、高さ約60センチ。墳丘は失われ、墓の存在を示す史料もなく、石槨の一部は露出していたが、別の古墳とは思われていなかった。大田皇女は天智天皇の弟でのちに天武天皇となる大海人皇子(おおあまのみこ)に嫁ぎ、斉明天皇の九州遠征に随行中、大伯皇女(おおくのひめみこ)と大津皇子(おおつのみこ)を産むが、若くして旅先で没した(帰京後死亡ともいう)。残された姉弟のうち、姉はのちに天照大神に仕える斎王として伊勢に下向。その間に弟は、皇位継承争いの末、非業の最期を遂げる。「万葉集」には、悲劇にまつわる姉弟の秀歌が残されている。