旧日本海軍の連合艦隊司令長官・山本五十六が残した遺書の標題。1939年5月31日付と41年12月8日付の2通ある。2008年12月1日、大分県教育委員会は、大分出身で山本長官の親友とされる元海軍中将・堀悌吉の遺族宅(東京都世田谷区)から、山本長官直筆の「述志」2通が、真珠湾攻撃の作戦原案などとともに発見されたことを発表。文書の存在と内容は、堀などによりすでに知られていたが、実物は50年以上所在不明だった。1939年のものは、翌年に締結される「日独伊三国軍事同盟」に反対の立場だった山本が身の危険を感じつつしたためたもので、俗論を排し、命を懸けてこの志を貫くとの決意が綴(つづ)られている。一方41年のものは真珠湾攻撃当日の日付で、対米戦争に反対してきた自分がその指揮を執る苦悩を吐露。その内容から、いずれも遺書と解釈されている。この2通を含む資料の一部は、2008年12月6~14日に大分県立先哲史料館で展示された。