町奉行所は、現代の東京都庁と警視庁に、下級裁判所の機能までもたせたような役所である。南北の2カ所であるが、元禄15年(1702)から享保4年(1719)までは中町奉行所があって3カ所だった。江戸時代初期の北町奉行所は常盤橋門内、南町奉行所は呉服橋門内にあり、その後、何回か場所が変わり、文化3年(1806)以降は、北町奉行所が呉服橋門内に、南町奉行所が数寄屋橋門内に移った。南北町奉行所は、江戸を二つの地区に分けて担当したのではなく、月番(1カ月交代)で訴訟の窓口となり、決定は南北両奉行が協議して行った。ただし、商業の分野においては、書物・酒・廻船などは北町奉行所、呉服・木綿・薬種問屋などは南町の担当というように業種によって分担した。毎年1回、6月7日の中橋天神祭礼の際には、誰でも奉行所内の見学ができ、与力・同心の家族や親類など、男女を問わず着飾って訪れた。
与力(よりき)
町奉行所に勤務する役人で、年番方をはじめとしてさまざまな掛(かかり)に分かれ、それぞれに同心が配属された。
同心(どうしん)
町奉行所にて、さまざまな掛(かかり)に分かれた与力のもとに配属される役人。町奉行所には100〜120人ほどが勤務した。