町奉行所では、与力が南北各25騎、同心各100~120人ほどが勤務していた。与力は、首席が年番方(ねんばんがた。南北各2人)、次席が同心支配で、その下に訴訟を担当する吟味方、判例を調べる例繰方(れいくりかた)、本所見廻、養生所見廻、牢屋見廻、定橋掛(じょうばしがかり)、町会所見廻、猿屋町会所見廻、古銅吹所見廻(ふるどうふきしょみまわり)、高積改(たかつみあらため)、町火消人足改(まちびけしにんそくあらため)、風烈見廻(ふうれつみまわり)、人足寄場定掛(にんそくよせばじょうがかり)など、さまざまな掛(かかり)に分かれ、それぞれ同心が配属された。ただし、与力すべてに役が与えられたわけではなく、経験や能力が不足している者には所属がなかった。警察組織である三廻(さんまわり)は同心だけで構成される。隠密廻(南北各2人)は秘密の探索を行い、定廻(じょうまわり。南北各6人)、臨時廻(りんじまわり。南北各6人)が通常の捜査・逮捕を行った。三廻同心は、同心の中でも出世コースだった。同心は、2人ずつ小者を抱えている。捕り物で「御用提灯(ごようちょうちん)」を持って働くのが小者である。町奉行の秘書として与力や同心たちとの間を取り持ったのは、町奉行の家臣から任命された内与力(うちよりき)である。与力の知行はおおむね200石、同心は30俵2人扶持だった。町奉行所の与力は騎馬の格だが、罪人を扱うため卑しめられており、与力のうちで最下席だった。他の役職へ異動することもなく、御目見得以下の身分にとどまったが、役得が多かったので生活は裕福だった。
町奉行所(まちぶぎょうしょ)
現代の東京都庁と警視庁に、下級裁判所の機能まで持たせたような役所で、北町奉行所と南町奉行所の2カ所であるが、元禄15年(1702)から享保4年(1719)までは中町奉行所もあった。
小者(こもの)
武士が雇う使用人である武家奉公人の中にあって、最下位にあたり、武士身分ではなく、武士の草履取りなどを務めた。
捕り物(とりもの)
刑事事件の容疑者を連行する際、抵抗の恐れがあるときに、与力・同心が出張すること。
町奉行(まちぶぎょう)
町奉行所の長官で、寺社地と武家地を除く江戸の行政担当者。警察業務や司法業務を日常的に遂行し、消防や災害救助も行った。
知行(ちぎょう)
幕府や藩が家臣に与える、領地から年貢などを徴収する制度。
御目見得以下(おめみえいか)
1万石未満の将軍の直臣で、将軍に拝謁することができない格式であり、御家人とも呼ばれた。