江戸時代の牢屋敷は、拘置所や留置場というべき施設で、刑事事件の未決囚を収監する場所だった。町奉行所直属の牢屋敷は小伝馬町(現・東京都中央区)に置かれ、内部は庶民を収容する大牢(たいろう)、無宿者のための二間牢(にけんろう)、武士や僧侶のための揚屋(あがりや)、百姓牢などに分かれていた。管理は、与力の格式である囚獄(牢屋奉行)の石出帯刀(いしでたてわき)が、牢屋敷の中に屋敷を構え、世襲で勤めていた。石出の下には、牢屋同心や下男がおり、辻番、医師もいたが、このような幕府役人の組織の外に、牢内では囚人のうち12人の牢内役人(あるいは高盛役人[たかもりやくにん])を置くことが認められており、彼らによる自治が行われていた。その筆頭が牢名主(ろうなぬし)であり、時代劇では、畳を10枚ほど重ねた上に座っている様子がよく描かれている。彼らに差し出す金銭により牢内での扱いが変わり、持参しなければ折檻(せっかん)された。そればかりでなく、牢内はすし詰めで非常に不衛生だったため、牢内で命を落とす者も多かった。幕末、吉田松陰が収監された際には、金銭を持っていなかったが、牢内に松陰を知っている者がいたために上座の隠居という扱いを受けることができたという。
町奉行所(まちぶぎょうしょ)
現代の東京都庁と警視庁に、下級裁判所の機能まで持たせたような役所で、北町奉行所と南町奉行所の2カ所であるが、元禄15年(1702)から享保4年(1719)までは中町奉行所もあった。
無宿(むしゅく)
決まった住居や生業をもたず、人別帳への登録もなされていない者。
武士(ぶし)
平安時代(794〜12世紀末)後期に生まれた、戦いを任務とする者。鎌倉時代以降、武士が政権を握ったため、支配階級として政治をも担当することになった。
与力(よりき)
町奉行所に勤務する役人で、年番方をはじめとしてさまざまな掛(かかり)に分かれ、それぞれに同心が配属された。
牢名主(ろうなぬし)
牢屋敷の牢には、庶民が入れられる大牢(たいろう)という30畳ぐらいの畳敷き牢があった。牢は自治が認められていたため、それを束ねた者が牢名主。大牢は東西牢にあり、東牢には有宿者、西牢には無宿者が入れられた。