徳川家の一門大名の総称。江戸時代には「親藩」と総称されることはなく、格式に応じて、御三家、御三卿「卿」は異体字)、家門(かもん)、連枝(れんし)などといわれた。家門には、家康の次男・秀康を祖とする越前家とその支流(分家)や、2代将軍・秀忠の子・保科正之(ほしなまさゆき)を祖とする会津松平家などがある。秀康の子・忠直は、菊池寛の『忠直卿行状記(ただなおきょうぎょうじょうき)』でも知られるように、不行跡のため豊後に配流され、嫡子・光長は越後高田に転封、弟・忠昌が40万石を与えられ、越前家と称した。その後、光長は、跡継ぎ問題による御家騒動(越後騒動)のため改易(かいえき)となるが、元禄11年(1698)、光長の養子・宣富(のぶとみ)が御家再興(おいえさいこう)を許可され、津山藩が成立した。したがって、越前家の本家は福井藩40万石だが、津山藩は10万石ながら嫡家と称し、他に松江松平家、前橋松平家、明石松平家などの支流があった。連枝は、御三家の支流で、高須松平家(尾張)、伊予西条松平家(紀伊)、高松松平家(水戸)などがある。
御三家(ごさんけ)
徳川家康の9男・義直を祖とする尾張家、10男・頼宣の紀伊家、11男・頼房の水戸家のこと。
御三卿(ごさんきょう)
徳川吉宗、家重の子によって創設された三家。将軍家の家族の位置付けで、それぞれ賄領10万石と、江戸城の田安門・一橋門・清水門のそばに屋敷を与えられた。(注:「卿」は異体字)
将軍(しょうぐん)
幕府の主権者で、形式的には朝廷から任命される。正確には征夷大将軍で、大臣を兼ね、正二位に叙された。
改易(かいえき)
武士より上の身分にある者に科した刑罰で、領地を没収する。大藩の大名の場合、1万石ほどの堪忍料(生活費)が与えられた。