江戸時代の大名は、幕府の承認を得て朝廷から官位(官職と位階)をもらい、官職を名前として用いた。位階は序列の等級で、一般の大名は従五位下、20年以上在任の大名や下位の国持大名、老中、京都所司代などは従四位下、島津家・伊達家は従四位下から従四位上、前田家が正四位下、水戸家が従三位、尾張家・紀伊家が正三位から従二位などとなっていた。位階により、それに見合った官職が与えられた。例えば、「忠臣蔵(赤穂事件)」の主役の一人、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)は、位階が従五位下、官職は「内匠頭」である。「長矩」が実名(諱[いみな]。その人の本当の名)だが、実名で呼ぶことは失礼とされた。「内匠頭」は、律令制国家の中央政府の役所の一つである内匠寮の長官という意味であるが、実質をともなってはいない。ほかに「越前守(えちぜんのかみ)」など律令制の国司を意味する官職もある。吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)の官位は「上野介」で、上野国の次官を意味する。上野国は親王が長官(上野守)に任じられるため「介」だった。ただし吉良は、高家(幕府の儀式を担当する家)の筆頭で、従四位上少将という高い官位にあった。「上野介」は単なる呼び名だと考えた方がよい。他の官職名も同様である。ほとんどの大名は官職名と実際の領地は一致せず、おなじ官職名の者が複数いる場合もあった。ただし、国持大名の多くは、領地の国名を官職名として選んだ(屋形号・やかたごう)。薩摩藩・島津家では薩摩守(さつまのかみ)、大隅守(おおすみのかみ)、修理大夫(しゅりだいぶ)、萩藩・毛利家では長門守(ながとのかみ)、大膳大夫(だいぜんだいぶ)というように、大名家では代々決まった官職名を名乗るのが一般的だった。
大名(だいみょう)
将軍の直臣のうち、1万石以上の知行(ちぎょう。幕府や藩が家臣に与える、領地から年貢などを徴収する権利)を与えられた武士。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。
朝廷(ちょうてい)
天皇が政治を行った政府。数々の儀式や祭祀も行った。
国持大名(くにもちだいみょう)
関ヶ原の戦いの後、徳川家に仕えるようになった1万石以上の直臣である「外様大名」のうち、位階が従四位下以上の大名は大広間に控席を与えられた。一国以上あるいはそれに準ずる領地を持った。
老中(ろうじゅう)
通常、江戸幕府の政務を統轄する最高職で、若年寄の補佐を受け、日常政務を執行する。
京都所司代(きょうとしょしだい)
幕府の京都における出先機関の長官で、譜代大名が任じられた。朝廷を監視し、京都の民政・司法を担当し、西国支配の責任者でもある。