江戸幕府の政務を統括する最高職。非常置で、置かれるときも1人である。3代将軍・家光の年寄(のちの老中)・土井利勝と酒井忠勝が奉書加判(ほうしょかはん。老中奉書に署名し、花押を据えること)などの日常政務を免除され、大政にのみ関与するよう命じられたのを大老職の始まりとするが、その時点でも両人は少将の官位に昇進せず、のちの大老とは格式において差がある。寛文6年(1666)、4代・家綱政権期の酒井忠清は、すでに少将の官位にあったから、忠清が老中を免除されてなお政務に関与したのを大老の始まりとするのが適当である。次いで天和元年(1681)、5代・綱吉政権の成立に功のあった堀田正俊が少将となり、大老に任じられて、大老職が確立する。ただし、堀田家は以後大老を出さず、酒井家も、元治2年(1865)2月1日、酒井忠績(ただしげ)が江戸幕府最後の大老に就任するまで大老を出さなかったため、以後の大老は井伊家のみから出ることになった。井伊家は、3代・家光のとき、井伊直孝(いいなおたか)が政務を後見する任にあったが、これを大老とすることは少なく、5代・綱吉政権期の井伊直興(いいなおおき)が井伊家から大老に任じられた初めとするのが一般的である。井伊家は、譜代大名の筆頭で、当主が少将に叙任される家だから、政治に関与するときは、老中は役不足であったことから、大老とされたものであろう。ただし、直興(直該[なおもり]と改名して2度目の大老を務める)、直幸、直亮(なおあき)と続く井伊家の大老が、政治にそれほどの影響力をもったとは思えない。直弼(なおすけ)の代に至り、13代・家定に大老に任じられると、将軍継嗣(しょうぐんけいし。跡継ぎ)を紀州藩の慶福(のちの家茂)とし、安政の大獄を推進するなど権力を振るった。これは、ペリー来航という時代の特殊性と直弼の個性によるところが大きい。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。
将軍(しょうぐん)
幕府の主権者で、形式的には朝廷から任命される。正確には征夷大将軍で、大臣を兼ね、正二位に叙された。
老中(ろうじゅう)
通常、江戸幕府の政務を統轄する最高職で、若年寄の補佐を受け、日常政務を執行する。
譜代大名(ふだいだいみょう)
関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えていた1万石以上の直臣。石高(こくだか)は、筆頭の井伊家が30万石だが、多くは10万石以下だった。