通常、江戸幕府の政務を統轄する最高職で、若年寄の補佐を受け、日常政務を執行する。3代将軍・家光期の前半までは「年寄」と呼ばれた。3~5人ほどが任じられ、月番制(大名との窓口が1カ月交代となる)をとるが、決定するときは合議によった。3万石以上の譜代大名が務めたとされるが、それ以下の譜代大名が任じられたときは、3万石以上に加増された。ちなみに、老中格は2万5000石が基準である。将軍に仕える本丸老中と大御所あるいは将軍世子(せいし。世継ぎ)に仕える西丸老中(にしのまるろうじゅう)の二種があるが、通常老中といえば本丸老中である。老中が連署して将軍の命令を大名に伝達する形が確立するのは2代・秀忠の時期だが、3代・家光のとき、老中の職務を規定したため、老中制の確立期とされる。徳川宗家の嫡流が将軍に就任していた4代・家綱までは、小姓あがりの将軍側近が多く老中を務めていたが、5代・綱吉以降は、奏者番(そうしゃばん。江戸城の儀式や典礼を務める要職)から寺社奉行を兼任し、その後、大坂城代、京都所司代を経て老中となる官僚制的なコースが確立した。10代・家治以降は、御側御用取次から若年寄、側用人を経て老中に昇進するコースもできた。老中の執務室は、江戸城中の20畳ばかりの御用部屋で、各老中がそれぞれ座って執務した。若年寄・奥右筆組頭以外は、御用部屋に入るとき、同朋頭(城内の案内をする坊主衆の責任者)を通さなければならなかった。また、4~5人の御用部屋付き坊主がおり、御茶の給仕や、取り次ぎなどにあたった。老中は、それぞれ担当する案件を、関係する若年寄や奉行らと協議のうえ結論を出すと、秘書的役割を務める奥右筆に前例を調べさせて書付を調えさせた。作成された書付は、扇に挟んで上席の老中から順番に回覧され、異議が出なければ決定となった。通常は先任順に首座となるが、御三卿(「卿」は異体字)出身の松平定信のように、就任とともに首座とされる者もあった。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。
将軍(しょうぐん)
幕府の主権者で、形式的には朝廷から任命される。正確には征夷大将軍で、大臣を兼ね、正二位に叙された。
譜代大名(ふだいだいみょう)
関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えていた1万石以上の直臣。石高(こくだか)は、筆頭の井伊家が30万石だが、多くは10万石以下だった。
江戸城(えどじょう)
徳川家康が天正18年(1590)に江戸に入府した際に入った城郭で、将軍就任とともに本格的に建設に着手し、3代・家光のころまで断続的に工事を行った大城郭。
寺社奉行(じしゃぶぎょう)
全国の宗教統制や寺社領の管理などを行う役職で、奏者番(武家に関する儀式や典礼を務める要職)の上位者が兼任する。
大坂城代(おおさかじょうだい)
大坂城を守備する幕府の西国の軍事責任者。
京都所司代(きょうとしょしだい)
幕府の京都における出先機関の長官で、譜代大名が任じられた。朝廷を監視し、京都の民政・司法を担当し、西国支配の責任者でもある。
御側御用取次(おそばごようとりつぎ)
将軍が日常生活する中奥の長官で、将軍と老中を取り次ぐ役職。
側用人(そばようにん)
将軍側近の最高職で、将軍を補佐し、将軍と老中とを取り次ぐ役。
奥右筆(おくゆうひつ)
老中の公設秘書。幕府において老中に付属して、法令・判例の調査や幕府文書の起草にあたった。
御三卿(ごさんきょう)
徳川吉宗、家重の子によって創設された三家。将軍家の家族の位置付けで、それぞれ賄領10万石と、江戸城の田安門・一橋門・清水門のそばに屋敷を与えられた。(注:「卿」は異体字)