将軍が日常生活する中奥(なかおく)の長官で、将軍と老中を取り次ぐ役職。紀伊藩主から将軍家を相続した8代将軍・吉宗が、側用人を廃止した代わりに、紀伊藩時代からの家臣・有馬氏倫(ありまうじのり)と加納久通(かとうひさみち)を大名に取り立て任命したことが始まりである。その後は、旗本役である側衆の中から2~3人が命じられるようになり、側用人復活以降も置かれ、幕末まで続いた。御側御用取次でない側衆は、平御側(ひらおそば)という。老中は将軍に直接物を言うこともできたが、平常は御側御用取次を介したので、単なる連絡役以上の権力をもつようになった。老中の申し出も、内容によっては将軍に取り次げないとはねつけたといわれる。江戸城内では、老中・若年寄と同様に、坊主が先導して「シーシー」と制止の声を出して歩いた。そのため、御側御用取次から大名に取り立てられて若年寄になったが、まるで左遷されたようだったと述懐する者もいた。
将軍(しょうぐん)
幕府の主権者で、形式的には朝廷から任命される。正確には征夷大将軍で、大臣を兼ね、正二位に叙された。
老中(ろうじゅう)
通常、江戸幕府の政務を統轄する最高職で、若年寄の補佐を受け、日常政務を執行する。
側用人(そばようにん)
将軍側近の最高職で、将軍を補佐し、将軍と老中とを取り次ぐ役。
旗本(はたもと)
1万石未満の将軍の直臣で、御目見得以上(将軍に拝謁できる)の者をいい、約5000人いた。
江戸城(えどじょう)
徳川家康が天正18年(1590)に江戸に入府した際に入った城郭で、将軍就任とともに本格的に建設に着手し、3代・家光のころまで断続的に工事を行った大城郭。
若年寄(わかどしより)
江戸幕府において、老中の補佐を勤めた役職。