寛永寺は、東叡山(とうえいざん)と称し、上野にある天台宗の寺院。増上寺は、三縁山(さんえんざん)と称し、芝にある浄土宗の寺院である。ともに徳川将軍の葬地であった。寛永寺には、4代・家綱、5代・綱吉、8代・吉宗、10代・家治、11代・家斉、13代・家定とその夫人たち、増上寺には、2代・秀忠、6代・家宣、7代・家継、9代・家重、12代・家慶、14代・家茂とその夫人たちが葬られている。なお、家康と3代・家光は日光、15代・慶喜は谷中に葬られている。両寺院ともに何度も火災に見舞われた。特に寛永寺は、明治元年(1868)の彰義隊の乱(しょうぎたいのらん)で全焼。増上寺も、現在は三解脱門(さんげだつもん)や家継廟二天門(いえつぐびょうにてんもん)を残すのみとなっている。なお、増上寺は、昭和33~35年(1958~60)に行われた将軍家墓所改葬の際に、遺骨の調査がなされた。その結果、将軍は、目が大きく、鼻が高く、庶民に比べて細面の面長な顔立ちだったことがわかっている。柔らかいものばかり食べていたため、顎があまり発達せず、歯のすり減りが少なかったという。
将軍(しょうぐん)
幕府の主権者で、形式的には朝廷から任命される。正確には征夷大将軍で、大臣を兼ね、正二位に叙された。