金貨は1枚1両の小判が基本通貨で、1両の半分の二分金、四分割した一分金、さらに1分を半分にした二朱金、四分割した一朱金があった。小判は、金座で鋳造され、幕府御金改役・後藤庄三郎の極印(ごくいん)が押された。小判を含めた金貨の品質は、幕府が最初に発行した慶長金銀(けいちょうきんぎん)が最も良質で、元禄期(1688~1704)に勘定奉行・荻原重秀によって質の悪い貨幣に改鋳され、正徳期(1711~16)に元の慶長金銀の品質に戻された。その後、享保(1716~36)、元文(1736~41)、文政(1818~30)、天保(1830~44)、安政(1854~60)と貨幣改鋳が繰り返され、品質は悪化した。贈答用に用いられる大判は、元は10両の重さだったが、江戸時代中期には7両2分替えとされた。しかし、元文の改鋳以後は、大判相場が高騰した。日本銀行金融研究所貨幣博物館では、「小判1両が今のいくらに相当するか?」という質問に対して、「江戸時代中期の金1両(元文小判)を、米価なら約4万円、大工の手間賃なら30万円~40万円、蕎麦代金なら12万~13万円」と換算している。総じて江戸時代の米価は安値になっていくので、小判1枚は、感覚としては、少なくとも10万円以上の価値があり、庶民がなかなか手にすることはできないものであった。武家奉公人の年間給金の上限は2両2分に定められており、1両を40万円として換算すると彼らの年収は100万円となり、おおむね妥当な額となる。庶民感覚としては、このあたりだったのではないかと推測される。
金座(きんざ)
勘定奉行のもと、貨幣の製造や管理を行った機関で、両替町こと、現日本橋の本石町にあった。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。
勘定奉行(かんじょうぶぎょう)
勘定所の長官で、幕府財政を担当するとともに、幕府直轄領の民政、徴税、司法にもあたり、定員は4人。
武家奉公人(ぶけぼうこうにん)
武士が雇う使用人で、身分によって、若党、中間、小者などがあった。