銭は銅貨で、江戸時代初期、寛永通宝(かんえいつうほう)が鋳造されるまでは、永楽通宝(えいらくつうほう)などの中国銭が通用していた。しかし、品質がまちまちで、質の悪いものは、支払いや商品取引の決済などの際に低く算定される撰銭(えりぜに)が行われて流通に不便であったことから、幕府は、寛永13年(1636)、江戸と近江坂本で新銭の鋳造を開始し、翌年からは水戸、仙台、備前、長門などの諸藩にも同じ品質で銭を鋳造させた。これが寛永通宝である。その後、諸藩での鋳造は禁止され、幕府が鋳造権を独占した。寛永通宝には中央に四角形の穴が開いており、鳥の目に見えることから、銭のことを「鳥目(ちょうもく)」ともいった。また、お金のことを「おアシ」というのは、足尾銅山で鋳造された寛永通宝の裏に「足」の字があったためである。銭の単位は文(もん)だが、銭10文を1疋(ひき)という慣行もあった。贈答用の金1分(ぶ)を金100疋ということも行われたが、これは銭100疋(1貫文)が金1分に相当したことから行われたことである。おそらく、金1分と書くより、金100疋と書く方が多額であるような感じがしたからであろう。なお、江戸時代の銭は寛永通宝だけではなく、鉄銭や真鍮(しんちゅう)四文銭も鋳造され、天保6年(1835)には、1枚で100文に通用する天保通宝(てんぽうつうほう)も鋳造された。これらは、銭貨の不足が下層庶民の生活をおびやかしたことによる措置だった。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。