大坂の劇作家・近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)作の『冥土の飛脚』を見ると、18世紀初頭には、九州から関東、東北におよぶ飛脚問屋の流通ネットワークができていたことがわかる。飛脚問屋が扱う荷物は、手紙よりもさまざまな商品や金子(きんす)が中心で、主人公の忠兵衛は、遊女・梅川(うめがわ)に入れあげ、友人に届けるはずの江戸の米問屋の為替金50両を使い込んでいる。この時代には、すでに為替が通用しているのである。為替は、始めは江戸小舟町の米問屋が発行したものとされている。飛脚問屋は、為替業務を行い、1000両を超える金銭を扱っていた。もし、途中で盗賊などに遭遇しても、大坂十八軒の飛脚問屋で弁済することになっていた。もともと飛脚問屋は、絹や木綿といった商品の集配を行い、宿継ぎで荷物を運送した。江戸では定飛脚問屋(じょうびきゃくどんや)、京都では順番飛脚問屋(じゅんばんびきゃくどんや)、大坂では三度飛脚問屋(さんどびきゃくどんや)があり、三者は一体となって江戸、京都、大坂の物流を担ったのである。京都や大坂の飛脚問屋は、大規模な呉服店の一部門が独立して成立したものが始まりだった。大坂の飛脚問屋は、木綿問屋と灘の酒造業者が後援していた。つまり、三都の大資本が、物流業者を育てたと考えられる。江戸の飛脚問屋は、日本橋室町2丁目と3丁目の横町である瀬戸物町に並んでいた。反対側は三井両替店のある駿河町、さらに行けば、両替町に金座があった。このあたりでは、千両箱を車に積み、あるいは棒で運び、毎日10万両ほどの金が行き交っていたという。
金座(きんざ)
勘定奉行のもと、貨幣の製造や管理を行った機関で、両替町こと、現日本橋の本石町にあった。
千両箱(せんりょうばこ)
1両金貨を収納する箱のことで、通常1000枚入るが、収納する量の少ないものや多いものなどもあった。金貨1000枚を納めた千両箱は17kgにもなった。