江戸で料理屋が営業を開始したのは、明暦3年(1657)のことだった。この年は、明暦の大火(振袖火事。1月18日=太陽暦3月2日)があり、市街地の復興のために各地から多くの大工や左官が集まった。そこで、彼らに対して食事を提供する場が必要だったために生まれたものだと考えられる。このころの料理屋は、奈良茶飯の店で、煎り大豆とともにお茶で炊いた御飯にお茶をかけて食べる奈良茶飯に、煮染め、煮豆、豆腐汁などを添えて出したものである。元禄(1688~1704)のころになると、こうした料理屋が江戸に数カ所できた。これは、諸藩の留守居役の寄合などに使われたらしい。ただし、一般の庶民が使うような店ではなく、享保(1716~36)の中ごろまでは、外出の途中で金を出して食事をする場所はなかったといわれている。本格的な料理屋ができるのは宝暦(1751~64)のころで、『中洲雀(なかすすずめ)』という洒落本には、座敷や庭の造作に凝った料理茶屋・四季庵という店が紹介されている。これなどは、料亭の走りであろう。文化・文政(1804~30)のころになると料亭全盛時代となり、八百善(やおぜん)や平清(ひらせい)などの高級料亭も出現した。このときも留守居役は主要な客だった。料亭だけでなく、庶民も楽しめる料理屋や酒場もでき、江戸の近郊では簡単な食事を出していた茶屋が料理屋に発展している。八百善が出版した料理書によると、献立は、江戸前の刺身、鮎の塩焼き、鴨肉などをメインに煮物や汁がつく現代の日本料理の原形となるものだった。
藩(はん)
将軍から1万石以上の石高(こくだか)を与えられた大名が治める、それぞれの地域に設けられた政治機構。
留守居役(るすいやく)
諸藩の中級藩士で、江戸藩邸に常駐し、幕府や他藩との交渉を担当した。