蕎麦は、甲州から江戸に入ってきたもので、古くからあった。蕎麦屋は、元禄(1688~1704)より前は江戸にほとんどなく、浅草にだけあった。そのころの蕎麦の値段は、7文だった。享保(1716~36)の中ごろから、次第に蕎麦を売る店が増えたが、そのころはまだ饂飩(うどん、うんどんともいった)屋が売っていた。専門の蕎麦屋ができるのは、宝暦(1751~64)あたりからである。蕎麦を蒸籠(せいろう)へ入れて出すのは、蕎麦を蒸して出したころの名残で、丁寧なのは皿盛りにすることだった。かけ蕎麦の語源は汁をかける「ぶっかけ」から来ており、明和(1764~72)のころから使われている。江戸の蕎麦の本来の食べ方は、もり蕎麦で、塩辛い汁に先を少しだけつけて蕎麦の風味を味わって食べる。二八蕎麦が「蕎麦粉8割に、つなぎの小麦粉2割を混ぜるもの」という説があるが、実は蕎麦の値段が2×8=16文だったからというのが本当らしい。その証拠に二七とか二五という言い方もあった。小麦粉を混ぜない蕎麦は正直蕎麦といい、のちにこれを生蕎麦(きそば)というようになった。