江戸吉原では、茶屋が客を揚屋(あげや)や遊女屋に案内する施設だったのに対し、寺社の門前や道筋にあって、湯茶を飲み、一休みできる店を水茶屋と呼んだ。ただお茶を飲ませるだけの店もあったが、看板娘を置いて、評判となる店もあった。江戸の町に水茶屋が増えたのは宝暦(1751~64)以降のことで、ずいぶんと繁盛し、文化・文政期(1804~30)には一町に5軒も6軒もできるようになった。宝暦のころ、浅草寺境内の「ごくふ茶屋」という水茶屋に湊屋おろくという女がいて評判になり、江戸中の水茶屋の女がおろくの結び髪をまねするようになった。明和期(1764~72)には、谷中の水茶屋「鍵屋」の笠森のおせんという百姓の娘が評判になり、浮世絵に描かれ、芝居にもなった。水茶屋の女の中には、実際には私娼的な存在もあったが、一般には素人の娘であることが評判を呼んだ理由である。いわば、ある種のアイドル的存在であった。水茶屋の代金は、元は一服8文から16文程度のものだったが、浅草や両国など盛り場の水茶屋では50文から100文ものお金がかかるようになり、有名な店では1朱(250文ほど)も2朱も置くようになった。そういう店は、入ると茶汲女(ちゃくみおんな)が出てきて酒の相手をした。
吉原(よしわら)
元和3年(1617)にできた幕府公認の遊郭で、日本橋葺屋町の一部に、家康の許可を得て開設された。明暦3年(1657)8月、浅草寺裏に移転。
浮世絵(うきよえ)
江戸庶民が生んだ風俗画で、版画がそのほとんどを占めた。