「太夫」は、金春太夫(こんぱるだゆう)や観世太夫(かんぜだゆう)でわかるように、能役者の第一人者を呼ぶものだったが、遊廓の最高級遊女の名称としても使われるようになった。吉原の高尾太夫(たかおだゆう)、上方(かみがた)の吉野太夫(よしのたゆう)などが有名で、代々襲名した。吉原の初代高尾太夫は、仙台藩主・伊達綱宗(だてつなむね)の相手である。太夫の相手は大名クラスの武士や大町人で、なじみになるためには初会、再会、三会目と最低3回は通わなければならず、一度の登楼に100両以上の金がかかった。妓楼(ぎろう。遊女屋)の方でも、太夫養成のために大金をかけた。容姿がよく利発な禿(かむろ。高いランクの遊女の候補生である少女)をその妓楼の太夫に付けて所作を学ばせ、毎日、身体を磨かせ、その合間に茶や花や香や書画、音曲などの稽古をさせ、一流の女性として育てあげたのである。「花魁」というのは太夫の別名で、禿が「おいらんとこの姉さん」というのが縮まって「おいらん」となったということである。武士が窮乏して町人中心の時代になると、太夫の存在価値も薄れ、宝暦(1751~64)の末年には吉原に太夫の称号をもつ遊女はいなくなり、格子(こうし)がそれに代わった。
吉原(よしわら)
元和3年(1617)にできた幕府公認の遊郭で、日本橋葺屋町の一部に、家康の許可を得て開設された。明暦3年(1657)8月、浅草寺裏に移転。
大名(だいみょう)
将軍の直臣のうち、1万石以上の知行(ちぎょう。幕府や藩が家臣に与える、領地から年貢などを徴収する権利)を与えられた武士。
武士(ぶし)
平安時代(794〜12世紀末)後期に生まれた、戦いを任務とする者。鎌倉時代以降、武士が政権を握ったため、支配階級として政治をも担当することになった。
格子(こうし)
遊女の三階級で、太夫の次の階級。格子の中で着飾っていたことから呼ばれたと考えられる。