元和3年(1617)、庄司甚右衛門(しょうじじんえもん)という者が吉原の創設を幕府から許されたとき、遊女には太夫(たゆう)、格子(こうし)、端女郎(はしじょろう)の三つの位付(くらいづけ。階級)があった。太夫は最高級の遊女で、揚屋(あげや。客が太夫や格子と遊ぶための宿)に行って呼ぶ。格子は、格子の中で着飾っていたことから呼ばれた名称であろう。寛文(1661~73)のころ、江戸市中にいた私娼が摘発され、吉原に送られ、格子の下に散茶(さんちゃ)という階級ができた。散茶とは粉になった下等のお茶のことで、振らずに出る、すなわち誰でも望む者の相手をしたことからこう呼ばれたという。つまり、太夫や格子は、遊女が客を気に入らなければ拒否することもできたのである。その後、遊女の階級は増え、享保(1716~36)のころには、太夫・格子・散茶の下に、うめ茶、五寸局(ごすんつぼね)、三寸局、なみ局、次(つぎ)、の階級が置かれ、8階級となった。ただ、これは階級というより、揚代(あげだい)の値段の差で細かく分けられただけであろう。ちなみに、最下級の遊女を二朱女郎ともいったが、これは揚代(あげだい)が2朱だったことによる。
吉原(よしわら)
元和3年(1617)にできた幕府公認の遊郭で、日本橋葺屋町の一部に、家康の許可を得て開設された。明暦3年(1657)8月、浅草寺裏に移転。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。