吉原で遊ぶ客のために作られた案内書が『吉原細見』である。書名は『吉原袖鑑(よしわらそでかがみ)』『吉原雀(よしわらすずめ)』『吉原買物調(よしわらかいものしらべ)』などさまざまだが、次第に『吉原細見』の名が定着した。これには、吉原の地図、茶屋のリスト、遊女の名前や位付(くらいづけ。階級)、揚代(あげだい)などが明記されている。享保20年(1735)の『吉原細見』では、太夫82匁、かうし(格子)60匁、さんちや(散茶)30匁とされている(遊女の階級)。また、人数は、享保から天明までは約2500人、寛政3年(1791)以降は急に増えて4000~7000人ほどもいたことがわかる。18世紀以降、『吉原細見』は、浮世絵版画などを盛んに出版した江戸の地本問屋・蔦屋(つたや)が版元となり、有名な文化人に序文を書かせて刊行し、江戸市内に売り歩かせた。
吉原(よしわら)
元和3年(1617)にできた幕府公認の遊郭で、日本橋葺屋町の一部に、家康の許可を得て開設された。明暦3年(1657)8月、浅草寺裏に移転。
匁(もんめ)/貫(かん)
重さの単位で、1匁は約3.75g。1貫=1000匁で3750g。
遊女の階級(ゆうじょのかいきゅう)
吉原の創設時には、遊女には太夫(たゆう)、格子(こうし)、端女郎(はしじょろう)の3階級だったが、後に、太夫、格子、散茶、うめ茶、五寸局(ごすんつぼね)、三寸局、なみ局、次(つぎ)の8階級となった。
浮世絵(うきよえ)
江戸庶民が生んだ風俗画で、版画がそのほとんどを占めた。