多くの男性に身を任せる遊女に、真実というものはなかったが、しかし相手とする男性すべてに不真実だったかといえば、そうでもない。つらい勤めであったがため、誰か一人の男性には真実で尽くそうとすることもあった。そういう相手を間夫(まぶ)といい、すべてを捧げてその男に尽くすことを間夫狂いといった。歌舞伎『助六』では、遊女・揚巻(あげまき)に、金持ちの遊客から間夫の助六が罵倒されたとき、「間夫がなければ女郎は闇」と言わせている。ただし、遊客に向かってこのように言えば、もはや吉原で生きていくことは難しい。そのため、そうした心を隠して勤めるのが、一般的だったのだろう。
吉原(よしわら)
元和3年(1617)にできた幕府公認の遊郭で、日本橋葺屋町の一部に、家康の許可を得て開設された。明暦3年(1657)8月、浅草寺裏に移転。