遊女が、心底惚れた相手に対して真実を尽くす手段を心中という。この言葉は、本来は衆道(男色)で行われたもので、小指を切り落とすなどの行動で愛情の証をしていた。それが吉原にも持ち込まれ、思う相手に小指を切って渡すなどの証をした。その後、愛し合った者同士が、この世では結ばれないことを悲しんで情死する事件が起こるようになると、これを心中というようになった。17世紀末には、心中事件が頻発し、大坂の劇作家・近松門左衛門は、現実に起こった心中事件を取材し、『曽根崎心中』や『心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)』を書いた。これは人形浄瑠璃で上演され、大人気を博し、心中が流行現象にまでなった。幕府は、これを危ぶんで心中とは呼ばせず相対死(あいたいじに)と呼び、死者の葬式は出させない、生き残った者は殺人犯として厳罰に処し、未遂の場合は日本橋に3日間さらすなどの禁圧策をとった。
吉原(よしわら)
元和3年(1617)にできた幕府公認の遊郭で、日本橋葺屋町の一部に、家康の許可を得て開設された。明暦3年(1657)8月、浅草寺裏に移転。
人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)
室町時代(1336〜1573)中期に成立した浄瑠璃と、人形遣いの芸が結びついて成立した人形芝居。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。