遊女には、実家に渡した前借金があり、これを完済するまでは吉原から離れることはできなかった。遊女の年季は、いちおう27歳とされているが、前借金を完済できないと、いつまでも吉原で暮らすことになる。逆に、なじみの遊客などが、前借金を完済し、遊女を吉原から解放することを身請けという。身請けされて人の妻になることが、遊女の最大の目標であった。しかも、そのなじみの遊客が真実を尽くした相手であれば、幸せなことだった。ただし、前借金の完済といっても、前借金だけではなく、年季いっぱい勤めた場合の稼ぎ高まで請求する抱え主もいて、身請けするのはなかなか簡単ではなかった。身請けされる場合は、揚屋(あげや。客が太夫や格子と遊ぶための宿)、茶屋、その他の知り合いに樽肴(たるざかな。酒樽と肴)に絹織物を添えて配り物をし、先方でも祝杯をあげてくれ、友達の遊女が大門まで見送ってくれる。これは、遊女の晴れがましい門出であり、こうした希望があるから、つらい勤めもできたのだろう。
吉原(よしわら)
元和3年(1617)にできた幕府公認の遊郭で、日本橋葺屋町の一部に、家康の許可を得て開設された。明暦3年(1657)8月、浅草寺裏に移転。