吉原の遊女は、年季が明けるか、身請けされれば吉原を離れることができたが、まだ年季の途中で病死する者も多かった。そういう者で引き取り手のない者は、箕輪(現・三ノ輪)の浄閑寺(じょうかんじ)や隣町の日本堤に接して建っていた西方寺(さいほうじ)に葬られた。これらの寺を投込み寺という。早桶に入れられ、禿(かむろ。高いランクの遊女の候補生である少女)一人が付き添うような寂しい葬式で、あたかも投げ捨てんばかりの葬り方だったからである。浄閑寺に残る6冊の過去帳には、寛保3年(1743)から幕末までの125年間に2000人ほどの遊女が記されている。その第1冊目には死亡年齢が書かれており、それを集計すると、最年少が15歳、最高齢が40歳で、平均22.7歳である。つまり、過酷な労働の中で、多くの遊女がまだ若いうちに死んだのである。またこの過去帳には、遊女の産んだ子が多く葬られており、そのほとんどが水子のうちに死んでいることも記されている。遊女が妊娠すると堕胎させる場合が多かったようだが、生まれてもそのまま間引(まびき)されてしまったのかもしれない。
吉原(よしわら)
元和3年(1617)にできた幕府公認の遊郭で、日本橋葺屋町の一部に、家康の許可を得て開設された。明暦3年(1657)8月、浅草寺裏に移転。
身請け(みうけ)
吉原の遊女の前借金を、なじみの遊客などが完済し、遊女を吉原から解放すること。