それぞれ、天皇の妻の呼称。皇后には中宮職という役所が設けられることになっており、そのため、中宮が皇后の別称として定着した。しかし、室町時代(1336~1573)から江戸時代初期まで、中宮は空席だった。天皇家の側では、中宮を置くと役所を設けなければならず、中宮を出すべき摂関家が外戚として中宮を援助することが困難になったという経済的理由のためである。そのため、本来はそれほど高い地位ではない女御が皇后の立場にあった。江戸時代最初の後陽成天皇(ごようぜいてんのう)は、近衛前久の娘・前子(さきこ)を女御としている。元和6年(1620)、徳川秀忠の娘・和子(まさこ)が後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の女御となり、興子内親王(おきこないしんのう。のちの明正天皇)を産んだ後、寛永元年(1624)に中宮となった。これが、江戸時代最初で最後の中宮である。その後、一天皇に一女御となり、女御が実質的な皇后の地位にあった。
摂家(せっけ)/摂関家(せっかんけ)
君主に代わり政治を摂る役を担う摂政(せっしょう)や関白を出す家で、「摂関家」とも呼ばれ、合わせて五家あった。