宮家は、世襲の親王家で、江戸時代初期には三家あった。その中で一番伝統があるのが、崇光天皇(すこうてんのう。南北朝時代の北朝、在位1348~51)の第一皇子・栄仁(よしひと)親王に始まる伏見宮家(ふしみのみやけ)である。この家は、15世紀前半、貞成(さだなる)親王の子・彦仁王(ひこひとおう)が皇位を継いで後花園天皇(ごはなぞのてんのう)となり、その子孫が代々天皇となった。残りの二家は、江戸時代初期、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の第六皇子・智仁親王(としひとしんのう)を初代とする八条宮家(はちじょうのみやけ、のち桂宮家[かつらのみやけ])と後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の第七皇子・好仁親王(よしひとしんのう)を初代とする高松宮家(たかまつのみやけ、のち有栖川宮家[ありすがわのみやけ])である。宝永7年(1710)、6代将軍・家宣の侍講(じこう)である新井白石の建議で東山天皇の第六皇子・直仁親王(なおひとしんのう)に始まる閑院宮家(かんいんのみやけ)が創設されて四家となった。将軍の正室(正妻)は、宮家か摂家から出すことが多く、4代・家綱の浅宮(あさのみや、伏見宮家)、8代・吉宗の真宮(さなのみや、伏見宮家)、9代・家重の比宮(なみのみや、伏見宮家)、10代・家治の五十宮(いそのみや、閑院宮家)、12代家慶の楽宮(らくのみや、有栖川宮)の5人がいる。
将軍(しょうぐん)
幕府の主権者で、形式的には朝廷から任命される。正確には征夷大将軍で、大臣を兼ね、正二位に叙された。
摂家(せっけ)/摂関家(せっかんけ)
君主に代わり政治を摂る役を担う摂政(せっしょう)や関白を出す家で、「摂関家」とも呼ばれ、合わせて五家あった。