阿国歌舞伎に続いて起こった、遊女による集団での踊り。遊女屋が経営する大がかりな興行で、慶長13年(1608)には京都の四条河原町で数万人を集めている。踊る遊女は50~60人におよび、当時最先端の楽器であった三味線の音楽に合わせて踊った。見物客は、気に入った踊子がいれば、夜、酒席に呼ぶこともできた。遊女歌舞伎の特徴は、それまで芸能興行が廻国(かいこく)の一座によって行われていたのに対し、遊女屋が宣伝のために興行する大がかりなものだったことである。そのため、廻国の一座ならせいぜい10人程度であるのに対し、特定の場所で、50~60人もの人数で興行を行うことができた。四条河原町が興行の地となるのは、この遊女歌舞伎の流行以来のことである。江戸でも吉原が開かれ、客寄せのために遊女たちが歌舞伎を踊った。しかし、慶長10年代から元和元年(1615)にかけて、風俗を乱すとして幕府から禁止されることになり、寛永年間(1624~44)には完全に興行と遊廓が切り離されることになった。
阿国歌舞伎(おくにかぶき)
慶長8年(1603)ころ、出雲大社の巫女を称する阿国という女性が、京都で、当時はやっていた「かぶき者」のかっこうをまね、男装し、刀脇差を帯びて踊り、この踊りが歌舞伎の発祥とされる。
吉原(よしわら)
元和3年(1617)にできた幕府公認の遊郭で、日本橋葺屋町の一部に、家康の許可を得て開設された。明暦3年(1657)8月、浅草寺裏に移転。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。