衆道(しゅどう。男色)の風習は、平安時代(794~12世紀末)の公家の時代からあったが、その後も武士や僧侶の世界で長く生き続け、戦国時代(1467~1573ころ)から江戸時代初期にかけては、衆道の風習が広範に行われることになった。そのため、公家や武士や僧侶を対象に、子供や少年たちに美麗な服装をさせ、男色の受け手「若衆」として踊らせることも、阿国歌舞伎(おくにかぶき)の流行と同時に広まっていった。遊女歌舞伎が禁止されたのちも若衆歌舞伎は存続したが、大名や旗本が歌舞伎若衆を呼んで遊ぶことが流行し、若衆をめぐって争いもあったことから、慶安5年(1652)には幕府により禁令が出された。その後、若衆を禁圧するため、歌舞伎興行そのものも禁止されることになった。
公家(くげ)
朝廷に仕える貴族や五位以上の官職にある官人。最高位の家柄は摂家。次いで、清華家(せいがけ)、大臣家(だいじんけ)などと続く。各大臣の下、文官で大納言、中納言、参議、武官で大将、中将、少将などの官職についた。
武士(ぶし)
平安時代(794〜12世紀末)後期に生まれた、戦いを任務とする者。鎌倉時代以降、武士が政権を握ったため、支配階級として政治をも担当することになった。
阿国歌舞伎(おくにかぶき)
慶長8年(1603)ころ、出雲大社の巫女を称する阿国という女性が、京都で、当時はやっていた「かぶき者」のかっこうをまね、男装し、刀脇差を帯びて踊り、この踊りが歌舞伎の発祥とされる。
遊女歌舞伎(ゆうじょかぶき)
歌舞伎の発祥とされる阿国歌舞伎(おくにかぶき)に続いておこった、遊女による集団での踊り。
大名(だいみょう)
将軍の直臣のうち、1万石以上の知行(ちぎょう。幕府や藩が家臣に与える、領地から年貢などを徴収する権利)を与えられた武士。
旗本(はたもと)
1万石未満の将軍の直臣で、御目見得以上(将軍に拝謁できる)の者をいい、約5000人いた。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。