野郎とは、男色の受け手となる若衆の象徴である前髪を剃り落とした歌舞伎役者のことである。慶安5年(1652)、若衆歌舞伎の興行が、衆道(しゅどう。男色)の悪弊があったことから禁止され、若衆が野郎になることで興行の再開が許された。歌舞伎興行の再開が許された承応2年(1653)3月が、野郎歌舞伎の始まりとされる。幕府は、野郎歌舞伎にも種々統制を加えたが、最も大きなものは、興行地の制限である。江戸では、堺町、葺屋町(ふきやちょう)、木挽町(こびきちょう)五・六丁目に限られ、役者も居住地を制限された。また、役者が大名藩邸や旗本邸に行くことも禁止され、寛文8年(1668)には、芝居町の中でも役者と客が会うことが禁止された。若衆が野郎になっても、衆道の関係が続いたからだろう。こうして野郎歌舞伎は、色を売るという側面を排し、演劇としての側面を発達させることになる。元禄時代(1688~1704)には、上方(かみがた 京都~大坂地方)に坂田藤十郎、女形の芳沢あやめ、江戸には市川團十郎などの名優が出て、日本独特の演劇として確立し、現代まで存続している。
若衆(わかしゅう)
衆道という男色の風習のもと、その受け手となる子供や少年たち。前髪がその象徴となる。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。
大名(だいみょう)
将軍の直臣のうち、1万石以上の知行(ちぎょう。幕府や藩が家臣に与える、領地から年貢などを徴収する権利)を与えられた武士。
旗本(はたもと)
1万石未満の将軍の直臣で、御目見得以上(将軍に拝謁できる)の者をいい、約5000人いた。