相撲は、古代以来神事として、専門職人としての相撲人(すまいびと)によって行われたが、中世には勧進相撲(かんじんずもう)という形で興行がなされるようになった。江戸時代になると、諸藩では相撲取を召し抱え、藩邸で相撲を楽しんだり、他藩との試合を行わせるようになるが、一方で勧進相撲の興行はあまり許可されなくなる。しかし、町々で行われる辻相撲は、禁令にもかかわらず行われ、町が相撲取を抱えることもあった。元禄(1688~1704)のころから、勧進相撲の興行がしばしば認められるようになり、諸藩召し抱えの相撲取もこれに参加するようになった。寛保2年(1742)には勧進興行一般が解禁され、江戸で春秋2回、京都で夏、大坂で秋の計4回の四季勧進相撲興行が行われることになった。この勧進相撲に参加するのは、それぞれの親方に率いられる相撲集団(現在の部屋にあたる)であり、これらがみな参加することから、四季勧進相撲は「大相撲」と呼ばれた。寛政3年(1791)6月、11代将軍・家斉は、江戸城吹上において、将軍が観戦する上覧相撲(じょうらんずもう)を行わせた。結びの一番は、東西の両大関・小野川と谷風であり、行事・吉田追風(よしだおいかぜ)によって、待ったをかけた小野川の「気負け」とされた。この上覧相撲によって、相撲は世間で大人気となった。
藩(はん)
将軍から1万石以上の石高(こくだか)を与えられた大名が治める、それぞれの地域に設けられた政治機構。
将軍(しょうぐん)
幕府の主権者で、形式的には朝廷から任命される。正確には征夷大将軍で、大臣を兼ね、正二位に叙された。
江戸城(えどじょう)
徳川家康が天正18年(1590)に江戸に入府した際に入った城郭で、将軍就任とともに本格的に建設に着手し、3代・家光のころまで断続的に工事を行った大城郭。