大相撲における力士の最高位。本来、大相撲興行における力士の最高位は大関だった。もと京都の行司の家だった吉田司家(よしだつかさけ)は、熊本藩・細川家に仕え、「本朝相撲司(ほんちょうすまいのつかさ)」を称した。江戸相撲の行司・木村庄之助や式守五太夫は、両家の地位向上のため吉田司家に弟子入りするが、これが逆に吉田司家の権威を高めることにもなった。吉田司家の19世・追風(おいかぜ)は、寛政元年(1789)11月、江戸の深川八幡宮境内における冬季大相撲の6日目、谷風と小野川の両大関に対して横綱免許を行った。このことによって、横綱の格式が知られるようになり、吉田司家が横綱免許を行う家であることが認知された。このころの横綱は、力士の地位というより、土俵入りをするときに横綱を腰にしめることのできる資格だったとみられる。明治(1868~1912)中期、元横綱の陣幕久五郎(じんまくきゅうごろう)が、横綱力士の顕彰碑を深川八幡宮内に建てたが、このとき、初代・明石志賀之助ら伝説的な横綱3人が加えられ、谷風が4代とされた。これが現代の横綱の代数の基礎となっている。東京の相撲協会が横綱を力士の最高位としたのは、明治42年(1909)のことだが、依然として吉田司家が横綱免許の権限を握っていた。これが相撲協会に移譲されたのは、第二次世界大戦後のことである。
大相撲(おおずもう)
江戸で春秋2回、京都で夏、大坂で秋の計4回行われた四季勧進相撲興行のこと。それぞれの親方に率いられる相撲集団(現在の部屋)が参加することから大相撲と呼ばれた。