有料の風呂屋のこと。関東では湯屋(ゆうや)、関西では風呂屋といわれる。江戸の銭湯の歴史は古く、徳川家康が江戸入りした翌年の天正19年(1591)夏には、現在の大手町・呉服橋の近くにあった銭瓶橋(ぜにかめばし)のたもとにて第一号店が営業を開始している。始めたのは、伊勢出身の与一という者で、現在の洗湯(あらいゆ)に入る風呂ではなく、伊勢風呂方式の蒸し風呂だった。風呂銭は永楽銭1文だった。建設途上の江戸には、銭湯を必要とした土木建築作業の人足が多かったから、ずいぶん繁盛し、多くの銭湯ができた。蒸し風呂方式の銭湯が、洗湯になるのは、江戸時代後期のことである。銭湯の営業時間は、夜間の営業は火事の恐れがあるため、朝から夕方までだった。また、風が強くなると時間に関係なく営業をやめた。もともと男湯と女湯の区別はなく、入込湯(いりこみゆ)という混浴だったが、寛政3年(1791)正月、老中・松平定信は、入込湯を禁止したので、男湯と女湯の区別ができるようになった。しかし、それ以後も、入込湯の銭湯もすたれなかった。ちなみに、文化5年(1808)、湯屋十組(ゆうやとくみ)仲間が成立したとき、男風呂141株、女風呂11株、男女両風呂371株の計523株があり、男女両風呂は男湯と女湯の間に仕切りを作って両者を区別したが、入込湯もあったのである。男湯の二階は社交場となっており、湯をあがった男たちは、裸のまま世間話などをした。その会話をデフォルメして文章にしたのが、式亭三馬の『浮世風呂』である。