江戸に銭湯ができて間もなく、銭湯に女性を置く湯女風呂というものができた。湯銭は20文ほど、湯女は20~30人ほどもおり、客が風呂に入ると、背中を流し、髪を洗ってやり、湯からあがると茶などを持ってきて話の相手をする、というものである。中には、七つ(午後4時ごろ)には銭湯の営業を終え、風呂の上がり場を座敷がまえとし、金屏風(きんびょうぶ)をひきめぐらし、湯女たちが派手な衣装を着て、三味線を鳴らし、小唄を歌うという風呂屋もあった。湯女風呂の客は武士が中心で、神田、道三橋、鎌倉河岸あたりの武家屋敷周辺に発達した。湯女は、実質的には遊女と同じだったから、これに客をとられて吉原が衰微し、遊女を湯女風呂に派遣して働かせることもあった。明暦3年(1657)、幕府は、湯女風呂を全面的に禁じ、湯女は浅草の山谷へ移転させた新吉原に送った。
銭湯(せんとう)
有料の風呂屋のことで、関東では湯屋(ゆうや)、関西では風呂屋といわれる。
武士(ぶし)
平安時代(794〜12世紀末)後期に生まれた、戦いを任務とする者。鎌倉時代以降、武士が政権を握ったため、支配階級として政治をも担当することになった。
吉原(よしわら)
元和3年(1617)にできた幕府公認の遊郭で、日本橋葺屋町の一部に、家康の許可を得て開設された。明暦3年(1657)8月、浅草寺裏に移転。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。