江戸時代の対外関係のあり方を示す用語。江戸幕府3代将軍・家光までの時代に、キリシタン禁令、幕府による貿易統制、日本人の海外渡航禁止が実現されたことから、「鎖国」が成立したとされる。特に、寛永10~16年(1633~39)までに出された法令が、「鎖国令」であるとされている。この過程で、朱印船貿易は途絶し、ポルトガル人が追放されたため、多くの日本人は外国人と接することがなくなった。しかし、オランダ人と中国人は長崎において貿易を許され、朝鮮とは対馬藩を介して国交があり、琉球は薩摩藩の支配下に置かれていた。また、松前藩はアイヌ民族と交易を行っていた。こうしたことから、江戸時代には長崎、対馬、薩摩、松前の「四つの口」が外国に開かれており、「鎖国」ではなかったという説も生まれている。もともと「鎖国」という言葉は、享和元年(1801)、エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kampfer[Kの後のaの上に¨])の著書『日本誌』の一部を訳したオランダ通詞(つうじ)・志筑忠雄(しづきただお)が、その際に「鎖国論」という題名を付けたことから始まったもので、それまでは鎖国という言葉さえなかった。その意味では、日本は鎖国ではなかったといえないわけではないが、海外渡航や外国との貿易は許されず、外国人も特定の居留地に閉じ込められるなどの体制を示す用語として「鎖国」は有効な概念だとも考えられる。何より、江戸時代に生きた人間が、「鎖国」という言葉を創出したことが、それを裏付ける。なお、幕府の解釈は、オランダと中国は「通商の国」として国交をもたず、朝鮮と琉球は「通信の国」として国交を開いている、というものだった。多くの日本人が「鎖国」をしていると考えていたからこそ、嘉永6年(1853)に来航したペリーによる開国要求が、最終的には幕府が倒れるほどの混乱を呼んだのだった。嘉永7年(1854)には日米和親条約が締結され、日本は開国することになった。貿易が開始されるのは、安政5年(1858)に、幕府が無勅許(むちょっきょ)、すなわち天皇の許しを得ないで調印した日米修好通商条約以後のことである。
将軍(しょうぐん)
幕府の主権者で、形式的には朝廷から任命される。正確には征夷大将軍で、大臣を兼ね、正二位に叙された。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。
朱印船(しゅいんせん)
豊臣秀吉や徳川家康などから下付された朱印のある海外渡航許可証を携帯して、海外との貿易を行った船。
通詞(つうじ)
江戸時代における通訳で、オランダ語の通訳をする者。中国語の通訳者は「通事」と表記された。