長崎における中国人の居留地。日本では、中国人のことを唐人と称し、戦国時代(1467~1573)には九州地方に盛んに来航して貿易をしていた。今でも、九州各地に唐人町という町名が残っている。寛永12年(1635)、幕府は中国船(唐船)の来航を長崎に限定した。このため、長崎は、中国人が来航する唯一の貿易港として栄えた。中国人はキリシタンではないことから、来港すると、長崎の町中に寄宿して貿易を行った。宿を貸す町人は、貿易額に応じて口銭(くちぜに。手数料)を取ったので、富裕化した。また、中国人も長崎に屋敷をもち、多くの使用人を抱えるようになった。長崎奉行は宿を貸す町人だけが利益を享受するのを改め、町人が居住する町にも口銭の利益を配分するようにした。天和3年(1683)、清朝は遷海令(せんかいれい。大陸封鎖)を撤廃して海外貿易を自由化した。中国人の長崎への来航は急増し、銀の流出が深刻な問題となった。元禄2年(1689)、幕府は、十善寺御薬園(じゅうぜんじおやくえん)の地に総工費銀634貫目余をかけて中国人居留地を造った。これが唐人屋敷で、面積は当初8000坪、のちに畑地なども加えて9000坪ほどになった。唐人屋敷は、塀で厳重に隔離され、中には多くの家屋が建ち並び、現在も残る天后堂(てんこうどう)や土神堂(どじんどう)などがあった。唐人屋敷に入ることのできる日本人は、役人や許された特定の商人のほか、遊女だけであった。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。