朝鮮国王が将軍に送った使節。江戸時代には12回来日した。慶長12年(1607)の第1回使節は、朝鮮出兵の後の国交回復のための使節で、対馬藩の努力で実現した。3代将軍・家光のときは、3度も来日しているが、これは朝鮮が清の脅威にさらされていたため、日本との友好を維持することを主目的としていた。4代将軍・家綱以降は、将軍の襲職を祝う使節で、将軍の代替わりごとに派遣された。使節は、500人ほどの構成で、国書(国王の書翰)と礼単(れいたん。進物)を持参した。国内での旅費の一切は日本側が負担した。使節の正使には、のちに、朝鮮王朝の総理大臣である領議政(りょうぎせい)になるようなエリート官僚が選ばれ、一流の学者や画家が随行していた。日本の儒者は、使節と詩文のやり取りなどの文化的な交流を行い、日本の民衆は通信使の行列を見物するため群集した。朝鮮と日本との国交は朝鮮の使節が来るだけという片務的なもので、幕府は貿易も行わなかったが、対馬藩は朝鮮との国交を担当する藩として、釜山(プサン)に倭館(わかん)と呼ばれる施設を設け、日常的に貿易を行っていた。主な輸入品は、木綿、朝鮮人参などだった。11代将軍・家斉の将軍襲職祝賀の使節は、幕府の財政難のため対馬までしか来ず、以後、計画はありながら通信使が日本に来ることはなかった。
将軍(しょうぐん)
幕府の主権者で、形式的には朝廷から任命される。正確には征夷大将軍で、大臣を兼ね、正二位に叙された。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。
藩(はん)
将軍から1万石以上の石高(こくだか)を与えられた大名が治める、それぞれの地域に設けられた政治機構。