琉球国王が将軍に送った使節。慶長14年(1609)、薩摩藩は徳川家康の許可を得て琉球に出兵し、服属させた。家康は琉球を薩摩藩に与えたが、国王は存続させ、琉球の「異国」としての地位は保証した。寛永11年(1634)、3代将軍・家光の将軍襲職と第8代国王・尚豊王(しょうほうおう)即位を名目に第1回使節が江戸に派遣され、江戸時代を通じて18回派遣された。使節には、将軍の襲職を祝う慶賀使(けいがし)と国王の即位に礼を行う恩謝使(おんしゃし)の2種があり、両使節を兼ねることもあった。使節は琉球にとっては最大の行事であり、「江戸上り」といわれた。使節一行は100人ほどで、薩摩藩の警護の人員を加えれば大行列だった。琉球使節は「異国の王」の使節ということで、中国風の衣服を身に着けるなど、実際以上に「異国風」にすることが強制された。薩摩藩主は、琉球使節を随行すれば中将に昇進できたので、使節派遣には力を入れた。朝鮮通信使が日本に来なくなってからは、特に琉球使節に注目が集まり、天保3年(1832)の使節のときには、多くの書籍が刊行されるなど、琉球ブームが起こった。
将軍(しょうぐん)
幕府の主権者で、形式的には朝廷から任命される。正確には征夷大将軍で、大臣を兼ね、正二位に叙された。
朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)
朝鮮国王が将軍に送った使節。朝鮮出兵の後の国交回復のための使節として、慶長12年(1607)に第1回使節が来日。江戸時代には、12回来日した。