ともに江戸時代における通訳。オランダ語の通訳をする者は「通詞」、中国語の通訳をする者は「通事」と表記された。平戸時代から長崎時代初期のオランダ商館で媒介となる言語はポルトガル語だったが、次第にオランダ語となった。通詞・通事の身分は、長崎の地役人で、通訳業務だけでなく、幕府からの法令の伝達、外国人の管理統制、貿易業務などに関与した。通詞の定数は、大通詞4人、小通詞4人、稽古通詞若干名で、通事も同様だった。18世紀になると、それぞれの階級に定員外の者や見習が置かれ、人数は増加した。通詞は、ポルトガル人やオランダ人に仕えて通訳業務を行った日本人の子孫で、30余姓、通事は亡命した明人の子孫が多く、40余姓あり、ともに世襲された。また、貿易業務の下働きをする者の中には、外国語を習得する者がおり、内通詞、また内通事(ないつうじ)とされた。内通詞(通事)は正規の通詞(通事)にはなれなかったが、仲間を結成することが認められ、公認された組織となった。通詞では科学技術や蘭学、通事では詩や書に大きな業績を残す者も輩出した。
オランダ商館(おらんだしょうかん)
オランダ東インド会社の日本支店。慶長14年(1609)に長崎の平戸に設けられたが、寛永18年(1641)に長崎の出島に移転させられた。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。