ともに個々の武士が召し抱えた家来。豊臣秀吉が、いわゆる身分法令で「侍、中間、あらし子」と列挙しているのが、武士に仕える武家奉公人である。なお、ここにあげられる侍が、通常「若党」と呼ばれる武士身分の者となり、中間以下は武士身分とはされない。武士が出陣するとき、騎馬の武士であると、鑓で戦うときに無防備となる鑓脇(やりわき。武士の馬の右方向)を固める家来が必要で、そのほか、鑓持ちや道具持ちなどを含めて数人の構成となる。江戸時代に入り、戦いがなくなっても、武士はこうした従者を連れて行動した。武士の身分的表象として、登城や外出の際には、主人の鑓や挟箱(はさみばこ)を持つ中間、草履取り(小者)などを同行させるのが作法だった。こうした武家奉公人は、本来は知行地(領地)の農民から徴発していたが、次第に雇用関係となり、やがて中間や草履取りなどは、江戸や城下町に武家奉公を専業とする労働力として滞留するようになった。中間などの中で有能な者を若党に取り立て、武士身分とすることもあった。たとえば、江戸時代の初期、中間の俸給の上限は年2両2分と決められており、毎年2月2日に雇用更新された。これを「出替り(でがわり)」といい、この日から別の武士に仕えることも多かった。
武士(ぶし)
平安時代(794〜12世紀末)後期に生まれた、戦いを任務とする者。鎌倉時代以降、武士が政権を握ったため、支配階級として政治をも担当することになった。
侍(さむらい)
もともとは貴人に「さぶらう者(仕える者)」という意味で、貴族を護衛する兵士の呼称であったが、のちに武士と同義に使われるようになった。
武家奉公人(ぶけぼうこうにん)
武士が雇う使用人で、身分によって、若党、中間、小者などがあった。
小者(こもの)
武士が雇う使用人である武家奉公人の中にあって、最下位にあたり、武士身分ではなく、武士の草履取りなどを務めた。
知行(ちぎょう)
幕府や藩が家臣に与える、領地から年貢などを徴収する制度。