武士が行動するうえで遵守すべき倫理。武士は戦いを任務とし、そのための訓練を受けた身分だから、「臆病」や「卑怯」という行為は忌み嫌われ、戦国時代には、死を恐れないどころか進んで死地に赴くことを好む武士も珍しくなかった。江戸時代に入ると、武士は支配階級として、農工商の人々の上に立つことになった。そのため、命を惜しまないだけではなく、他の道徳においても、他の身分の者とはまったく違う倫理が求められた。武士の規範は、非常に厳格なものになり、特に名誉ということに関しては敏感になった。武士道の特徴は、自己犠牲の精神と厳しい自己規律を要請するものである。たとえば、武士は自らの損得で行動することを嫌悪し、些細なことでも友人と約束すれば、命をかけてでもそれを果たした。「忠臣蔵」として有名な、赤穂の浪人による吉良上野介(きらこうずけのすけ)邸討ち入りは、多くの武士が称賛し、手本とすべき事件であった。落ち度があるとされれば即座に切腹するという覚悟は、多くの武士の共有するメンタリティーである。明治時代になってから武士道を解説した書物として、新渡戸稲造の『武士道』(1899年に英語版、1903年に和訳版)があるが、これは武士の倫理をキリスト者の立場から普遍化しようとしたもので、理想化された武士の姿を強調している。一方で、武士道書の代表とされたこともある佐賀藩士・山本常朝(やまもとじょうちょう)の『葉隠聞書(はがくれききがき)』は、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言で知られるように「死に狂い」の態度を強調し、後先を考えず死地に赴くことが武士道の根幹であると述べている。儒学の立場からは、山鹿素行(やまがそこう)が『武教小学』などにおいて、為政者としての武士のあり方を説いている。このように、武士道といっても、論者によってかなり差があり、これが武士道書だとされる公認の書物は存在しない。多くの武士は、幼いころから軍記物などを読み聞かせられることによって、それぞれの武士の理想像を形成していったものと思われる。
武士(ぶし)
平安時代(794〜12世紀末)後期に生まれた、戦いを任務とする者。鎌倉時代以降、武士が政権を握ったため、支配階級として政治をも担当することになった。
切腹(せっぷく)
武家が罪を犯したときに命じられる刑罰だが、自ら責任を取って死んだことになり、家督相続などを認められることが多かった。
儒学(じゅがく)
儒教、すなわち孔子の思想に基づく信仰や教えの体系。