江戸時代の庶民は、主に木綿を着用しており、その多くは古着だった。古着には、正確には中古の衣服と解(ほど)いて布にした解き物の2種類あり、これを合わせて「古手(ふるて)」といった。衣料の先進地域である上方(かみがた 京都~大坂地方)からは、大量の古手が木綿栽培のできない東北地方に移送され、また農村向け商品の代表的なものも古手だった。江戸では、日本橋富沢町に古着問屋があり、各所に古着屋があった。日蔭町(ひかげちょう。現・新橋駅付近)や柳原土手(やなぎはらどて。現、神田川沿いの岩本町付近)にも古着屋が集中していた。三遊亭円朝の落語『鏡ケ池操松影(かがみがいけみさをのまつかげ)』では、日蔭町の立派な店構えの古着屋で、婚礼衣装などを42両で調えた医者の娘が、それらが粗悪品だったために恥をかき、自殺してしまう話がある。古着屋の中には、そうした偽物(いかもの)を売る店もあったのである。柳原土手は、古着の中では最下級品を扱っており、自殺者からはぎ取った衣類なども混入していたとみられる。庶民は、こうしたことを承知のうえで、自らの目で確かな品物を選んで買う必要があった。なお、古着を調達する古着買(ふるぎかい)は、富沢町などに店舗をもつ業者があったが、町を歩いて買い取る古着買もおり、万治2年(1659)の振売札(ふりうりふだ)交付の際には、220人が認可を受けている。
富沢町(とみざわちょう)
江戸の古着問屋が集まる町で、現在の中央区日本橋富沢町にあたる。
振売(ふりうり)
籠(かご)に商品を入れて、道を売り歩く、店舗を持たない零細な商人。棒手振(ぼてふり)ともいう。