飴を売る商人。江戸風俗の百科事典である『守貞謾稿(もりさだまんこう)』には、「江戸でさまざまな格好をして売る者がいる」と書かれている。たとえば「唐人飴」と称して、外国人の衣服を着けて売っている者もいた。こうして人目を引くことで、飴を売っていたのである。「飴細工」といって、はさみを巧みに使って、飴で鳥などの形を作って売る商売もあった。地方でも、村の祭礼や開帳などのときには、飴売りが出た。万治2年(1659)正月の振売規制では、飴売りは50歳以上か15歳以下、あるいは身体に障害のある人にのみ許されるされており、飴売り許可は、そうした社会的弱者たちへの救済措置とされた。農閑渡世、すなわち農作物の収穫後の農閑期を利用して飴売りに従事する者もいた。越後長岡藩領の田辺家の飴商売を分析した研究によれば、飴の製造を行っていた田辺家には、文化(1804~18)期に200人余りの弟子がいたとされる。つまり、組織された飴売り集団もあったのである。このような弟子たちは、幕府の町奉行所へ提出した文書によると、やはり、ほかの手段で生計が立てられなかったり、身体に障害のある人であったことが記されている。田辺家は、こうした者たちを組織し、遠方の地域にまで飴を販売していたのである。
振売(ふりうり)
籠(かご)に商品を入れて、道を売り歩く、店舗を持たない零細な商人。棒手振(ぼてふり)ともいう。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。
町奉行所(まちぶぎょうしょ)
現代の東京都庁と警視庁に、下級裁判所の機能まで持たせたような役所で、北町奉行所と南町奉行所の2カ所であるが、元禄15年(1702)から享保4年(1719)までは中町奉行所もあった。