本来は博打を打つことを生業とする者の意味だが、江戸時代の博徒は、任侠の世界に生きる「侠客」と実体はほとんど同じである。博徒の世界に入る者は、地道に働くことを嫌う者で草相撲の出身者など乱暴者が多い。博徒は、博徒のネットワークをたどって一宿一飯の恩義を受けながら廻国し、信頼すべきと考えた親分のもとに草鞋(わらじ)を脱いで、子分となる。博徒の親分は、宿場、河岸(かし)、湊(みなと)などの交通の結節点に生息した。居酒屋、質屋などを営み、裏では賭場を開き、管理売春などでも稼ぐ。代表的な博徒の親分に、上州の国定忠治(くにさだちゅうじ)、駿河の清水次郎長(しみずのじろちょう)らがいる。国定忠治は、子分に堅気(かたぎ)の者に手を出すことを禁じ、無宿の者に厳しい掟(おきて)を課したので、その勢力下ではコソ泥すらなかったという。博徒の間では、賭場の権益や勝負をめぐって喧嘩(けんか)が起こりがちで、命をやりとりする武力闘争も頻発した。幕末の混乱の中、博徒の中には、官軍に応じる者も出た。岐阜の水野弥三郎(みずのやさぶろう)は、幕末に官軍先鋒隊の一つ「赤報隊(せきほうたい)」に加わり、功績をあげたが、偽官軍の汚名を着せられ、謀殺された。清水次郎長の敵役・甲斐の黒駒勝蔵(くろこまのかつぞう)も赤報隊に加わり、のちに脱隊の罪で処刑された。
博打(ばくち)
賭博のこと。江戸幕府の法令では、賭博は「博奕」と表記された。賭博を打つ人を「博奕打ち」といい、それが「博打」に省略され、次第に賭博そのものを表す言葉となった。
無宿(むしゅく)
決まった住居や生業をもたず、人別帳への登録もなされていない者。