関八州、すなわち武蔵(むさし)、相模(さがみ)、上野(こうづけ)、下野(しもつけ)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、安房(あわ)、常陸(ひたち)の治安維持を担う八州廻りに使われた者。「手先」ともいう。江戸時代後期、幕府直轄領と大名領、旗本領が錯綜(さくそう)し、大きな大名もいなかった関東地域は、博徒や侠客が跋扈(ばっこ)する世界だった。文化2年(1805)に設置された関東取締出役は、わずか8人で水戸藩領を除く関八州を巡回するものだったから、独力で治安維持を実現できるはずはなかった。そこで地元の有力者を協力者にして任務を遂行した。この協力者が「道案内」である。道案内は、多くは有宿と無宿の境界線にいる、いわゆる土地の顔役で、犯罪者の事情に通じていて重宝な存在だったが、弊害も大きかった。たとえば、道案内が、自分の手下に賭場を開かせてテラ銭(寺銭)を得ていたり、邪魔になる名主や宿役人などの有力者を陥れたり、紛争に介入して賄賂(わいろ)を取ったりするなど、悪人である場合が少なくなかったのである。侠客との付き合いも深く、出役の廻村などの情報を漏らし、侠客の逃亡を助けたりすることもあった。出役の任務の成否は道案内にかかっていたので、これを統制することは困難だった。ただし、中には声望のある豪農が任命されることもあった。こうしたケースは、地方の名望家である豪農にとって博徒を抑えて村々を守ることが自らの利益となるため、八州廻りと協力して治安維持にあたったものである。
八州廻り(はっしゅうまわり)
武蔵(むさし)、相模(さがみ)、上野(こうづけ)、下野(しもつけ)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、安房(あわ)、常陸(ひたち)の関八州において、治安維持を担うため創設された勘定奉行直属の幕府役人である「関東取締出役(かんとうとりしまりでやく)」の別称。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。
大名(だいみょう)
将軍の直臣のうち、1万石以上の知行(ちぎょう。幕府や藩が家臣に与える、領地から年貢などを徴収する権利)を与えられた武士。
旗本(はたもと)
1万石未満の将軍の直臣で、御目見得以上(将軍に拝謁できる)の者をいい、約5000人いた。
博徒(ばくと)
博打を打つことを生業とする者。ネットワークをたどって一宿一飯の恩義を受けながら廻国し、信頼すべき親分のもとで、子分となる。
侠客(きょうかく)
任侠、すなわち弱きを助け強きをくじくことを信条として生きる者。
関東取締出役(かんとうとりしまりでやく)
武蔵(むさし)、相模(さがみ)、上野(こうづけ)、下野(しもつけ)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、安房(あわ)、常陸(ひたち)の関八州において、治安維持を担うため創設された勘定奉行直属の幕府役人。「八州廻り(はっしゅうまわり)」とも呼ばれた。
藩(はん)
将軍から1万石以上の石高(こくだか)を与えられた大名が治める、それぞれの地域に設けられた政治機構。
無宿(むしゅく)
決まった住居や生業をもたず、人別帳への登録もなされていない者。