刀を作る職人で、刀工(とうこう)や刀匠(とうしょう)ともいわれた。室町時代(1336~1573)以前は寺社に所属し、特権的な同業組合である「座」を形成して、独占営業していた。備前(岡山県)の長船(おさふね)は、平安時代(794~12世紀末)から続く刀鍛冶集団だったが、天正18年(1590)の大洪水で壊滅的な打撃を受けた。長船に次ぐのは美濃(岐阜県)の関(せき)で、多くの刀鍛冶がいたが、やはりそのころ、尾張(愛知県)の清洲や名護屋に移住する者もいた。一方、有名な関の孫六(せきのまごろく)は、刀鍛冶を廃業し、刃物の行商に転業することで活路を見いだし、家庭用刃物の定番として全国に広まった。全国の刀鍛冶を支配下においたのは、京都の伊賀守金道(いがのかみかねみち)という刀鍛冶である。金道は、大坂の陣を前にした徳川家康の求めに応じて千振りの刀を打ち、「日本鍛冶惣匠(にほんかじそうしょう)」の称号をもらった。こうして全国の刀鍛冶を支配下におさめ、肥後守などの受領(ずりょう。国司の官位のこと)の斡旋もするようになった。諸藩には、藩お抱えの刀鍛冶がいた。だが半面、これらを含め、刀鍛冶は、実は貧乏の代名詞のようにもいわれている。それは、地金や薪炭などの材料費にくらべ、刀剣の値段が安すぎたからである。数打(かずうち)と呼ばれる大量生産の刀は、1両もしなかったらしい。逆に一振り20両を取る、名のある刀鍛冶もいた。
藩(はん)
将軍から1万石以上の石高(こくだか)を与えられた大名が治める、それぞれの地域に設けられた政治機構。