江戸時代の宝くじ。木札を錐(きり)で突いて当選者を決めることから、「富突(とみつき)」「突富(つきとみ)」などとも呼ばれた。起源は16世紀後半の上方の寺院で、江戸にも普及し、元禄~享保期(1688~1736)に盛んに行われた。幕府は、たびたび禁令を出し、ついには「御免富(ごめんとみ)」という公的に許されたものだけが興行することになった。この興行をできたのは寺社で、堂舎の修繕を口実とする資金集めであった。江戸でにぎわったのは谷中感応寺、湯島天神、目黒不動などの富くじで、文化~天保期(1804~44)の最盛期には、1カ月に30カ所以上で興行された。しかし、興行数が増えるにつれて札余り現象も生じ、赤字となって撤退する寺社もあった。文政末年(1829~30)ごろの最高賞金額は300両で、札の代金は金1朱から2朱、あるいは銀2匁から3匁5分ほどであった。これは職人の1日分の手間賃ほどの額で、1枚の札を数人で分割して購入することも行われた。本来は、寺社の境内でしか売買が許されなかったが、境内以外で販売する札屋(ふだや)も増加した。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。