天体のさまざまな現象を観測し、研究する学問。暦(こよみ)の作成の必要から発達した。日本の暦の元となった中国の暦は、月齢を基本とする太陰太陽暦で、太陽暦とは1年の長さが違うため、2~3年に一度閏月(うるうづき)を設ける必要があった。古代日本では、朝廷の中務省管轄下の陰陽寮(おんみょうりょう)という機関に暦博士(れきはかせ)と暦生(れきしょう。暦学の書生)が置かれ、暦を作成した。暦博士は、次第に賀茂(かも)氏が独占するところとなり、室町時代(1336~1573)に賀茂氏が絶えた後は土御門(つちみかど)氏に実権が移った。ただし、これは中国の暦法書に依拠したもので、独自の展開はなかった。江戸時代になると、幕府も暦の作成を行うようになり、貞享元年(1684)、幕府碁所・安井算哲(やすいさんてつ)が、日本人によって作られた初めての暦である貞享暦(じょうきょうれき)を作成した。この功によって算哲は天文方に任ぜられ、のち渋川と改姓し、渋川春海(しぶかわはるみ)と名乗った。続く宝暦暦(ほうりゃくれき)は朝廷に主導権が移ったが、天明期(1781~89)には浅草に天文台が設けられ、常時、天体観測を行って暦の作成に備えた。このころには、民間にも西洋天文学を学ぶ者が出現し、幕府は在野の天文学者・麻田剛立(あさだごうりゅう)の弟子で大坂町奉行所同心だった高橋至時(たかはしよしとき)を天文方に登用し、本格的に西洋天文学の導入をはかった。至時は、オランダ語の天文学書を研究することによって、寛政9年(1797)、寛政暦(かんせいれき)を作成した。至時の次男・渋川景佑(しぶかわかげすけ)は、父の遺志を継ぎ、定気法(ていきほう)という、太陽の運行を元にした天保暦(てんぽうれき)を天保13年(1842)に完成させた。これは、日本における最も精密な太陰太陽暦である。ちなみに、全国測量を行った伊能忠敬(いのうただたか)は至時の弟子で、測量の目的は子午線1°の長さを測ることによって地球の大きさを割り出すことにあった。
朝廷(ちょうてい)
天皇が政治を行った政府。数々の儀式や祭祀も行った。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。
同心(どうしん)
町奉行所にて、さまざまな掛(かかり)に分かれた与力のもとに配属される役人。町奉行所には100〜120人ほどが勤務した。