儒教、すなわち孔子の思想に基づく信仰や教えの体系。中国、南宋(なんそう。1127~1279)の時代に朱熹(しゅき。尊称は朱子[しゅし])によって完成された儒教の新学派が朱子学で、中国では朱子学が主流になった。日本で儒学と呼ばれる学問も基本は朱子学で、これが江戸時代人の知的基盤となり、国学や洋学の基礎ともなった。朱子学は、中世に禅宗とともに伝来し、当初は寺院で学ばれた。徳川家康のブレーンになった林羅山(はやしらざん)も、最初は僧体で、道春(どうしゅん)を名乗った。羅山の子孫は、林家(りんけ)として幕府の教学の中心となり、幕府や大名も儒学を奨励した。一方で、中国古典から直接儒学を学ぼうとする古学派も起こった。代表的な学者が、古義学の伊藤仁斎(いとうじんさい)や古文辞学(こぶんじがく)の荻生徂徠(おぎゅうそらい)である。江戸後期になると、藩校や私塾が設立され、儒学は武士階級の基本的な教養となった。中でも徂徠学が影響力をもったが、18世紀末、幕府は寛政の改革(1787~93年に起こった幕政改革)の一環として林家の私塾を官立の昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)に改組し、朱子学を正統な学問とした。その後、学問吟味という試験を実施し、成績優秀な者を登用するようになった。
林家(りんけ)
徳川家康のブレーンになった、朱子学者・林羅山(はやしらざん)の子孫の家系。朱子学をもって幕府に仕え、大学頭(だいがくのかみ)を世襲した。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。
大名(だいみょう)
将軍の直臣のうち、1万石以上の知行(ちぎょう。幕府や藩が家臣に与える、領地から年貢などを徴収する権利)を与えられた武士。
武士(ぶし)
平安時代(794〜12世紀末)後期に生まれた、戦いを任務とする者。鎌倉時代以降、武士が政権を握ったため、支配階級として政治をも担当することになった。
昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)
寛政改革(1787〜93年に起こった幕政改革)の一環として幕府が林家の家塾を改組して設立した高等教育施設。正式には学問所というが、場所が湯島の昌平坂に面していたため、昌平坂学問所、あるいは昌平黌(しょうへいこう。黌は学位の意)と呼ばれた。