寛政の改革(1787~93年に起こった幕政改革)の一環として幕府が林家の家塾を改組して設立した高等教育施設。正式には学問所というが、場所が湯島の昌平坂に面していたため、昌平坂学問所、あるいは昌平黌(しょうへいこう。黌は学位の意)と呼ばれた。湯島には、孔子を祀(まつ)る聖堂と林家の私塾があったが、老中首座・松平定信は、柴野栗山(しばのりつざん)、岡田寒泉(おかだかんせん)を「聖堂付き儒者」に任命して人材強化をはかり、寛政2年(1790)、朱子学以外の学問を採用しないことを布達した。これを寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)という。学問所の対象は幕府の旗本・御家人だったが、諸藩士や浪人にも門戸が開かれ、教授として大坂で私塾を営む尾藤二洲(びとうにしゅう)や佐賀藩校弘道館教授・古賀精里(こがせいり)が招かれた。諸藩士は、藩費留学のエリートで、寄宿生として学問に励んだ。寛政4年(1792)からは、幕臣に対する試験である学問吟味も創始した。この試験は、朱子学の知識を問うもので官吏登用試験ではなかったが、成績優秀者が役職に登用されるケースが多かったため、3年に一度の試験が近づくと、幕臣は試験勉強にいそしんだ。
幕府(ばくふ)
武家の政府で、もともとは近衛大将や征夷大将軍の居所を指したが、鎌倉幕府以来、征夷大将軍に任じられた武家が政治を行う場所やその政府のことをいった。
林家(りんけ)
徳川家康のブレーンになった、朱子学者・林羅山(はやしらざん)の子孫の家系。朱子学をもって幕府に仕え、大学頭(だいがくのかみ)を世襲した。
老中(ろうじゅう)
通常、江戸幕府の政務を統轄する最高職で、若年寄の補佐を受け、日常政務を執行する。
朱子学(しゅしがく)
中国の南宋(なんそう。1127〜1279)の時代に朱熹(しゅき。尊称は朱子[しゅし])によって完成された儒教の新学派で、中国では朱子学が主流になった。日本における儒学の基礎でもある。
旗本(はたもと)
1万石未満の将軍の直臣で、御目見得以上(将軍に拝謁できる)の者をいい、約5000人いた。
御家人(ごけにん)
1万石未満の将軍の直臣で、御目見得以下(将軍に拝謁できない)の者をいい、約1万6000人いた。
藩(はん)
将軍から1万石以上の石高(こくだか)を与えられた大名が治める、それぞれの地域に設けられた政治機構。
浪人(ろうにん)
主君を持たない武士。領地や地位、俸禄などを失って落ちぶれた「牢籠(ろうろう)」の身にあることから、本来は「牢人」と書いた。